昭和56年12月26日   朝の御理解

                    
  神訓                     
 「一、神の恵を人知らず親の心を子知らず」


 神の惠を知らない事はない。親の思いが分からないはずもない。だからここで教祖が教えておられますこの御教えはね。神の恵が分かったら、その恵に対する神恩報謝の心を願い求めておられると思うんですよね。
 親の心を子知らずは、親子の事ですから分からん事はない。親が自分を思ってくれておる事でも、子が親を思う。いわゆる思い思われるという事は分からんはずはないです。けどもその親の思いに答えようとしてないと言う事だと思うんですよね。子知らずとか人知らずと言うふうにこう仰っしゃっとられますけども、知ってはおるんですけども天地の恩恵と言った事はこう分かっておるけども、ならそれに対してどれだけ神恩報謝の心、又は親に対する孝心、いわゆる親孝行の心と言うものが表されるかとね。          その親の思いを分かりながら親の心に添おうとしない、親孝行をしようとしないね。天地の大恩などとは誰でも一通り知らんはずはないね。知らんはずはないのだけれども、それに対してそれこそ吐く息ね、吸う息ね、呼吸一つですら神様のおかげを頂かなければ、水ひとすくいの水、一粒のお米でも神様の御恩恵によるものだと言うような事は誰でも知っているんですね。
 只信心とは知っておるだけではなくて、それに答えまつる心の状態を言うのであり、又それを育てていくのであるね。合楽理念を実験実証さして貰うとそれを本当にそれこそ日々刻々に神様の働きを言うならば感ずる。そこに神恩報謝の心も自ずと湧いてくるね。そう言ういうなら誰しもが神恩報謝の心が生まれてくるような実験実証をしていけよと言う教えなんですよね。ですから分かっただけではなくて、それをやはり行の上に表わさなければね。有難い勿体ないと言う事は分からないですね。                昨日、西福岡西分会の間島て言う方から電話がかかったんですけど、今具合が悪くて病院に入ってられます。丁度十二月十六日、報徳祭の日から入院されるようになっておりました。それでそれは御参拝を頂いたあくる日からでも遅くはないですよと、私は申しましたから、そしたらあの御参拝のおかげを頂いて、そして入院する事に致しますと言うて十六日の日にはお参りになったそうです。
 そして入院のおかげを頂いたわけですけども、本当に御神意のまにまに動くと言う事がこんなにも有難い尊いおかげになって来るだろうかと思うように身体の上にも段々おかげを頂いとりますが、入院いたしまして、翌日ある御信者友達があなたは何日ここに入院しとらなんか分からんけども、もう本当に詰めて信心の勉強の時間を神様に与えられたつよとうこ言われて教典感話やらおかげの泉やらを沢山持って来て下さった。                  それをもう本当に読ませて頂いて、有難い日々を過ごさして頂いとりますが、もう日々の中に神様の働きのもう本当に微妙な事にもう驚き入っておりますと言うて。しまえには泣き出してから言われるから何か言いよんなさいますけど、何かよく聞き取れませんでした。感動してね。合楽理念は本当に本当に実験さして頂こうと本気になると必ず実証が生まれるです。実証が生まれんならば、本気でそれを実験してないのです。                  参りよります、毎日参りよります。お話は毎日頂きよりますだけぢゃいかんです。もう本当におかげを頂かして貰わなならん。ここの所だけがはっきり分かったんですけれども、実はこちらへ病院にまいりましてから、まあお金も相当かかるらしいから御主人が見えてから言われるのに御主人も時々参って見えるんです。お前が入院してからこっち金銭のお繰合わせを頂くのに本当にもうただ事ぢゃないと思うと言うてその言われたと言うお話でございました。
 まあ金銭のお繰合わせと言う事だと。特にですね。本当にそこに置いたものを取るようにと言うか必要なものが必要に応じてこうやってこう、きちっ!きちっ!と頂けれる体験と言うものは本当にこれは神様、今日の御理解で言うと神の恵と言う事は。信心があろうがなかろうが御恩恵の中にあるんですけれども、信心させて頂けばね。一段と神様のお恵みが分かってくるわけ、深く広く分かってくるわけ。だから深く広く喜ばして頂くわけ、その喜びにこれはね。期せずして頂けるおかげ、お恵。そう言うおかげをね。頂かしてもらう。
 私、今朝からお夢を頂いておったが、昨日は丸少の感謝の夕べでまあ楽しゅう一夜を過ごさせて頂きましたが、子供達があのお芝居をやってるそのお芝居の続きのようなお夢であった。続きと言うわけでもないけれども、まあ芝居がかりお夢であった。『私が沢山なお金を運ばせて頂いておるんです。夜中にお月様が煌煌と照ってござる、昼のように明るい中に沢山なお金を運んでおる横をある人が自転車ですーっと通ってから、あなたがそこに運んでおるのはお金ぢゃないですかと言われるんです。ああどうして知っちゃるやろかと思うて、はいそうですがと言うたらね。その白装束の連中がね。あなたを何々峠で待ち受けてあなたを襲うと言う相談をしておりましたよ。御用心なさいませ』と言うまあお芝居がかりで、そう言う事を教えてくれるお夢でした。
 普通なら黒装束と言う所でしょうね。けどもお夢の中では白装束がとこう言うわけです。まあここに深い意味が私は感じたわけでございます。けれどもそいでいやあそりゃおかげ頂いた。それではもう峠を越すのは、今夜はある手前で泊まらしてもろうて。そして夜が明けてから越す事にしようと私が思うておるお夢であった。
 ね信心させて頂いておるとね。これは格別なお繰合わせと言うものがあるですね。神の恵みを人知らずとこう仰っしゃる。ならそれに対して神恩報謝の生活が出来ていないと言うのが普通一般である。親の心が分からんわけでもないけれども、ほんならその親に本気で喜んで貰おうと言う孝心を起こす者が少ない。わかっちゃおるんです。御恩恵と言う事も分かっておる。
 話を聞けば尚更一段と分かるんだけれども、それにお答えする心ね。その神恩が分かれば分かるほど、たたおかげを頂かなんから一生懸命参りよります、お供えしよります、御用しよりますと言ったようなものぢゃないんです。合楽の場合は、もうどこまでも合楽理念による基づく生き方と言うものが出来るから、そこに神恩報謝の心、言うならばお繰合わせを頂くわけね。            今の間島さんぢゃないけどもです。あれこれ商売の事も金銭の事も自分が病院に入っとるから心配しておるけれども、家では兎に角、信心のまだほとんどない御主人がやはりおかげと思わにゃおられないと言うほどしのお繰合わせを頂いとる。
 自分は只一生懸命言うならば今こそ信心の勉強の時と思うてから、いわゆる御本を読ませて頂いて合楽理念を実験実証、病院でさして頂いておるね。そう言う言うならばお繰合わせを頂くと言う事はどう言う事かと言うといよいよおかげの実感ね。
 神の恵みと仰っしゃるが信心をさして頂いてれば、やはり信者氏子と神様がよんでおられますように普通氏子とこう言う。けども信心さして頂く者は信者氏子とこう二つ重ねて仰っしゃった。
 信者氏子である私達がほんなら特別の神様のそうした御都合お繰合わせを頂く内には教えを実験実証しなければいけない。お願いしておかげを頂いたおかげでは本当な事ぢゃない。教えを実験さしてもろうてそこに生まれてくる実証、そこにいわば教えのいよいよ有難さ、又それを身に付けていく喜びね。そこにいわゆるおかげが頂かれる。
 昨日は私午前中ここでお取次をさしてもらったけど、もう一人一人がその合楽理念の実験実証なさっておられる様子と言うものを昨日は続いてお取次さして頂いた事でございましたけども、そこの今合楽の田中さんが午前中と午後と二回お参りになるんです。昨日もこちらへお参りさせて頂いて、その玉砂利の上をサクサクと歩いてくる、そのサクサクとする音がカチカチカチカチと音がするんだそうです。だからこれはいつもんと音が違うがと思うて、あの歩いて来られると、それが又こういつもと違った。そしてそれこそ身がづ~んとするようなものを感じられたって言うのです。
 この歩いて神様へ向かって歩いて来ておる、そこに神様の生きた働きと言うか、何かおいさみが足元にあり続けてるような感じで今日はお参拝のおかげを頂きましたと言うお届けがあったんですけどもね。そりゃもうすぐ近所におんなさいますから二遍も三遍参ってもいいようなもんですよね。遠方から参って来る。けどもなかなかそう二遍もお参りと言う事は今までなさった事はないけれども、信心を少し進めてそして出来れば研修の時間にお参りして、研修の皆さんの先生方の話を聞くと言うふうなにして毎日二度ずつお参りになります。                          その少し神様に心を向けた時にです。そしていつも思うんですけど、ここへ着かせて頂く、あの時計の針がです。いつも私の心にはずみをつけてくれるような感じの例えば四とか六とか八とか言うようにですね。その何時八分とか何時六分とかと言うような時にここへ到着。それがまた楽しみでもあると言うね。
 だからそう言う一つの神様の働きを間違いなく身近に感じれれる生活さしてもらうなら、自と神恩いわゆる御恩恵に対する喜びと言うものが湧いてくると私は思うです。
 私共が信心しておれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多いと教えられる。その目に見えぬおかげをね。私共が信心の心をいよいよ育ててまいりませんとキャッチしきらんのです。おかげを。一のおかげを頂いたと思うたら、十のおかげを頂いたように言わば、御礼を申し上げとってもまだ足りない位なんですね。
 だからそう言う言うなら信心の稽古を身近にね、神の恵みを人知らず。いいや知らん事はい、知らんとここで言うておられるのはね。知らんも同じである。神の恵みを知っておっても神恩報謝の心が湧いてこないならば知らんも同じである。
 親の思いが分かっておる、分かっておるけれどもそれに答えよう、孝行しようと言う心がないならば知らんのも同じ事である。そう言う意味にまあ教えておられると思うんですけれども。私は昨日お取次を頂いた幾人かの方達が本当にあのその気で実験実証なさっておられる様子を聞かしてもろうてですね。
 本当に足元に神様の働きを日々刻々感じる。どんな場合であっても、そん為にはいよいよ本気でね、一段と神様へ例えば一遍参りであったのを二遍参ると言うふうに心を神様の方へ、もう一回と言うようにですね。そう言う時に神様の働きと言うものを感じるですね。昔は大祓心行と言うものをここで頂いとりましたが、今でもやはり大祓は唱えませんけども、心行なさっとられる方達がまだあると思いますけども。なら大祓十巻と思うて毎晩修行さしてもらいますね。 けども今日もう一巻、もう一巻神様におまけしときますと言ったような感じであげる時ですね。お知らせなんか頂くのは、おいさみやらがあるのはそう言う時です。
 例えば田中さんなんか毎日日参しておられるんですけども、その日参がもう一遍側におるんだからね。遠方から参ってきなさると思うたら、もう一遍位お参りせにあと言う。その一遍と言う所からいわゆる身近に神様を感じられる事が出来るようになったと言うのです。ね本気で合楽理念の勉強をしようとしてです。いうなら毎日御本を読ませて、いわゆる勉強する事に喜びを感じさして頂いとれば、お家では思いもかけないおかげをが実証されて、それこそまあ電話で御礼のお届けがございましたが。ねそれこそもう感動で言葉が出らないような感じで御礼のお届けがありました。
 合楽理念によって神の恵みを知っただけでなくて、合楽理念の実験実証さしてもろうて、初めてその神恩報謝の心が生まれてくるね。それこそ親の心が分かったら、親の心に添わずにおれないと言うような心がね。信心によって育てられてくると言うのですから信心が有難いのです。
 只分かっただけでは、言うならばね。神様のいわゆる神の恵みを人知らずと仰っしゃる。神の恵みを知っただけでは、それが詳しく分かっただけではいかんのです。分かれば分かるほどいわゆる神のいわゆる御恩恵に対する神恩報謝の心と言うものはいよいよ募るばかり、いよいよ有難くなるばかり。その有難いと言う心にね又おかげが伴うてくる。                       もう本当に神様の間違いないのにはおそれ入ってしまう。本当に大難と思われるような時に神様はちゃあんと万事御都合お繰合わせを下さってね。いうなら私を襲おうとしている白装束をです。事前にこう言う事でしたよとまあお知らせを頂いて、知らせて頂いてね。その難を避ける事が出来るようなおかげも随分私共は頂いとる事でしょうけれども。それがおかげをおかげと感じきらない、感じきらない証拠にはいわゆる本当の意味においての神恩報謝ね。
 神の恵みに対する所の報恩の生活、親の心が分からせてもろうて本当にこの親に喜んでもらわなければ、孝行せずにはおれないと言う心がです。分かっただけでは出けんのですけれども。信心をさして頂いてると、それが自ずと自分の心の中に頂けてくるようになるね。 そこに本当の言うならば孝心としての又は神様の願われる願いの氏子とでも申しましょうかね。としての信者氏子としての値打ちと言うか。それが出けてくるわけね。どの位に日々私共が本当に神恩報謝の心と言うものがあるだろうか。おかげは頂かなんけん参りよっとと言う人が多いのぢゃないだろうか。本当に神恩を思ったら、じっとしてはおれないと言ったような心が育たんのは、合楽理念の実験実証していないからだと言うていいと思うですね。
 「どうぞ」